リフレッシュの時間

自分の思いつくままに、好きなことを書いています

スイミングスクール

上の子(来月5歳になる)を、今月からスイミングスクールに通わせ始めた。

最初はかなり嫌がってた。スクールに着いても泣いてばかりだったが、本日5回目。さすがに5回目になると、泣かなくなった。
泣いていた理由は、なんとなく、不安、だとか、なんとなく、怖いらしい。わからなくはない。全員知らない子どもたちと大人に囲まれて、緊張するのは当然だ。

スイミングスクールに通わせ始めた理由は、自分自身が水泳で苦労したからだ。中学までは水泳の授業もなんとなくやっていたが、「文武両道」をスローガンとする体育の厳しい高校に入ってしまったところ、水泳がかなりのハードルになった。50m泳ぎきっても「補講」になった。それは、「フォームがよくない」とかそんな理由だった。授業を欠席してるわけではなくすべて出席していても「補講」制度があった。
補講は、一回500mとかそんなので、だいたい補講がたまるのはいつも同じメンバー。いつも見慣れた補講メンバーで友達ができ、友人によっては「補講が2kmも溜まってる」なんて言ってる人もいた。

この高校は極端だと思うが、それにしても、この「体育会系」の校風が、当時の私には苦痛で、「なんでこんな大変な思いをしないといけないのか」などとよく、補講メンバー同士でぼやいていた。

公立の進学校だったが、体育の先生が独特の立場で強い権力を持っているように見えた。「伝統」と称して、冬には10kmの断行競走とか、泥まみれの綱を使った「縄跳び」とか、もう、理解不能の、単なる修行としか思えないカリキュラムばかりだった。体育の試験の前には必ず、家の前の公園で試験の練習をしていたほどだった。ハンドボールのシュートのフォーム、サッカーの時はリフティングなど・・。

それが、そのときは苦痛だったのが、今振り返ると、その(私には不合理としか思えない)体育の修行で、なんというか「めげない精神」みたいなものが培われたように思うのだった。
「やればできる❗️」
なんて言うと簡単な言葉に聞こえるが、何十年もの土がまとわりついた「綱」の二重跳びが、1回跳ぶだけでも至難の技のように思えるのに、それを20回などという不合理な試練があって、それをできなければ体育の単位が取れないなどと脅され、とにかく無条件で無我夢中で練習する。しかも、「綱」は泥や土まみれの1、2kgはある、文字通りの綱なので、持ち帰ることもできず、練習できるのは放課後しかない。それでも、毎日のように必死に練習していれば、跳べるようになる。
あれは不思議なもので、1回跳ぶのがやっとの時には程遠い目標のように感じられたものが、どうすれば連続で跳べるようになるのか考えながら無我夢中で練習していると、手首の回し方だったり腕の筋力だったりが身について、初めは5回、そのうち10回と跳べるようになった。

さらには、その「綱跳び」の二重跳びを習得したあとに、試しに家にある市販のよくある「縄跳び」で、二重跳びをしてみたところ、あまりに市販の縄跳びが軽すぎて、二重跳びが軽やかにでき、疲れるまで跳んでみようと試してみたら、100回を超えても全く疲れなかった。

このように、本当に馬鹿馬鹿しいと思える体育のカリキュラムだったが、そのお陰か、どんなことにもへこたれない気概のようなものは宿った気がするので、今振り返ってみると、無駄ではなかった、と感じるのだ。

そういうわけで、自分の子どもにも、運動をさせる、というか、体を強くすると同時に精神を強くするためにも、スイミングスクールを通わせ始めた、というわけだった。

箱入り娘のちやほやされての温室栽培も奥ゆかしいかもしれないけど、社会に出る以上は荒波に揉まれる前提で、多少の困難があってもめげない精神力を身に付けないといけないと思うからだ。

スイミングスクールでどれほど何が身に付くのかはわからないけれどもね。
でも、泳げるようになることは、気持ちのいいことだし、趣味にも繋がるし、いいですよね!
今でも私は、あんまり泳ぐのが苦手で、特に、プールや海と聞くだけでマイナスイメージだから、娘にはそんなマイナスイメージは抱いてほしくない、と思うわけです。