阪神淡路大震災の日です。そして、自分の誕生日でもあります。
ブログに、この日のことを書いていなかったようなので、記しておきたいと思います。
早いもので、阪神淡路大震災の時から31年も過ぎたのですね。私は、当時中学1年生でした。大阪の箕面に住んでいました。
地震の瞬間の時のことは、今でも鮮明に覚えています。
私は、2階にある自室の布団で寝ていました。頭は、押し入れの方に向けていて、押し入れは開けっぱなしでした。ドーンというものすごい下から突き上げる揺れが来た瞬間に、「地震だ!」と思って、とっさに布団から立ち上がろうとしたのですが、あまりに強い揺れで立つことができませんでした。
立ち上がることをあきらめて、布団の中にもぐりました。布団をかぶった頭に、押し入れから習字セットが落ちてきました。
同時に、隣の部屋から父が「地震や!」と布団にもぐる私の上に覆いかぶさりました。
揺れは長く感じました。布団の中にもぐりながら、1階で、次々とお皿が割れる音が聞こえました。ガッシャーンガッシャーンという音を聴きながら、人の力を大きく超えた自然の力を感じるとともに、「ああ、こうして人は死ぬのだ。」と素直に死を受け入れました。抗うこともできない、大きな力の前では、人というのはちっぽけすぎて何もできないのです。
まだ、生まれてほんの13年でしたが、穏やかな気持ちでした。
そうして、地震は治まりました。
「生きてた。」そんな感想でした。
当時はまだインターネットの情報もそれほど普及していませんでしたので、状況はわかりませんでした。
1階に降りると、まず、玄関が水浸しでした。玄関に置いてあった、金魚の大きな水槽の水が半分ほどに減っていて、その水が、揺れで玄関を水浸しにしていました。
台所の食器棚は倒れていて、すべてのお皿が床に割れて粉々になっていました。
母は、「大変や大変や。」と言っていました。
足を怪我するかもしれないので、台所には近づけませんでした。
それでも、私たちは無事でした。箕面は、大阪でも山の方で地盤が強かったこと、そして、直下だった淡路島や神戸からは少し距離がありました。
その日、いつもの登校時刻に、いつも通り学校に行きました。
日本人は真面目ですね。クラスメイトは、1名を除き全員登校していました。
「今日の地震すごかったなー!」と口々にみんなが話していました。
休みの1名は大丈夫なのかな、とみんなが心配していた時、先生が、
「〇〇は、風邪で休み!」と言って、みんなから安堵の笑いがこぼれました。
家族に怪我した人はいないかという確認があった後、先生が、
「今日は、家の片づけとかがあるから、授業は無しで、これで終わり。帰るように。」
と言って、下校しました。
そんな日でした。
翌日になって、昨日が自分の誕生日だったと思い出しました。
テレビのニュースや新聞で、神戸が大変なことになっていることを知って驚きました。
父が、当時、神戸に勤務していたので、毎日の勤務が大変でした。
交通機関がすべてストップしたので、自転車で神戸まで通勤していました。
母は、毎朝おにぎりをたくさん作って、父がそれを神戸に持っていき、神戸の被災者の皆様に配ったそうです。帰ってくると、
「みんなすごい喜んでくれるんや。明日も作って。」と言っていました。
本当に大変な日々でした。それでも、私など本当にたいしたことがないのです。
神戸の惨状を父から聞くたびに、本当に、神戸の方々に比べると自分なんて、と思いました。
この経験が自分の原点です。
それまでの短い人生で色々と子どもなりに感じたり考えたりはしてきたとは思うのだけど、これ以上の体験はありませんでした。
確かに、親族や友人を亡くしたり、という経験ではないのですが、しかし、自分の生きてきた価値観に強烈なインパクトを残しました。
人はいつでも死ぬのです。それは、計画的にではなく、ある日突然、不本意に、自分の思い関係なく。理由関係なく。
そして、抗えない圧倒的な絶大な力を目の前にした時に、受け入れるしかないと悟るのです。
それは、悲観的な話ではありません。絶望する話でもありません。
そのような絶対的な真理の前で、ただ、今、自分が何をするかだけなのです。
その前提を頭の片隅に置きながら、自分の人生を全うするということです。
命は、与えられているものだから、大事に、そして、十分に満喫しようと思います。
そんなことを書きながら、今の自分は、毎日を楽しめているのかな。
もちろん、忙しい中ですが、楽しんでいます。